山城國梅ヶ畑向ノ地の中山
時の権力者に献上され、万国博覧会に登場等名実共に素晴らしい軌跡を持ちます。
他の砥山はそのまま地名か見つけた方の名前等が付くのが大方です。
中にある山と言う大まかな呼称は、今で言う五千両・長四郎・高山・宗五郎・裏大突・巣板口・穴の谷・マキバ山・尾崎、等々今では高雄パークウェイで埋まってしまったところも丸めて菖蒲谷近辺の砥石ということで菖蒲と称されたこととも似ると言えるかもしれません。
音戸山と谷を挟み対峙する向ノ地から北は長刀坂付近、西は木津山付近にかけてかつては名もない穴だらけと聞きます。
特に長刀坂向いの猪尻山近くまでトロッコ索道跡があります。このあたりに北中山と呼ばれる間府もあったと聞きますが、樹木が繁生し苔の載った廃石のほか見る影もありません。
時代を遡るにつれ、名もない間府が集まり中山の勢力範囲を大きく掲げてていたと聞きます。
平成に変わろうかと言う菖蒲の最期の頃、宗五郎に一本化されたのと同じような感じで、昭和の終わりの中山では、尾根がせり出して延びてきたその斜面に沿って三種の高さで間府が開いており、尾根とほぼ平行に掘り進み、時には300m以上掘ったと聞きます。地形状の立地のよさも重なり大どれし、間府により色々でます。
親方と鎧組みした水間府を見に行きました。13年でここまで腐ります。
加藤さん縁の方のおうちに通して頂き裏手に出て水間府へ。
水間府は、職人間では泉とも呼ばれ、昭和の中でおおどれしたもの。入り口から30枠ほど入って、30度くらいで急降下して奥殿側の走る谷あいの高さをはるかにしたをくぐります。
水が良く溜まるので、散水の水源として転用され、杉の間伐材で坑木を突き直したため、崩落は間近。
本来は松の株タで突きます。
現在中山で採掘されていた職人さんは、お一人しか存命でないと思います。
それには訳があって、高雄の砥山で働く職人さんが高齢になってくるなどで弱ると、親方に「中山送り」と言われ、薄めの板で皮けつやツケが明瞭で採掘しやすく立地にも恵まれた中山でさいごを過ごしていたと聞きます。
二寸超える原石は、殆ど見なかったと聞きます。ツケのピッチが狭いのですが、本棚みたいな非常に美しい板なりです。しかし、厚い品物は妙に多いような???
昭和の50年代に露天でひっくり返して採掘終了。
高いところから、桜・大幕・水間府(泉)と呼ばれ、戦後のものはこの三本立てであったと聞きます。加藤鉱山ですね。
泉は、中期で終了し、間府おくの下り口には今もウインチが放置され大きなポンプと出水菅が横たわってます。
大幕は木津山の方角に西に掘り進み、間府は崩落。
色物の硬めのものと、浅黄も出ました。
桜は露天と西方向に進む間府があり、刀剣地艶・色物の逸品などとれ、硬さもいろいろ。
大きな桜があって、春は酒盛りの場であったそうです。
巣板の勢いは極弱く薄く、巣だらけで二級品が多いです。
研ぐたびに石の模様が変わるれいの石です。
北中山は見る影なし。
更に北の猪尻山は殆ど住宅地と化してます。
手挽きの鋸と簡易お勝手。
間府横の作業小屋、間府より出でてここで製品になったものが、マルカの正規品として世に出ていたと聞きます。
う~ん黒電話。
右から泉・泉・猪・桜・大幕・上は猪
猪の赤めの色物の赤い梨。未体験のずば抜けた石でした。
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