安平さんよりご報告2
うはうは!!興奮気味でお話になるところによると・・・
- バイト工具当たりよく、サクイことなく切れる。
- しかし、軟質材ではなく、剛体
- とかく、粘りのある材
- 木理が度肝を抜くほど緻密なので物凄い模様が出る
- お上品な悩殺的クリーム色
こんな、面白い木があるとはしらなんだとおっしゃられておりましたが、よっぽど大昔の大工か、みかんの里の出の職人さんでないと知らないようなことなのですから当然です。
昔は、みかんの材は減反がなかったので品物にするほど出なかったのもその一因であると思います。
わたしは、運よくみかんと橘/たちばな/に囲まれて育ちましたから、鑿の柄とか棒系統のものは何でもみかんでGOでした。
鉋台も、タマラン極上です。
安平さんともお話したことなのですが、みかんにより熱い想いを馳せて頂く為に、奴らはどこから来てどのような処遇に晒されつつあったのか?是非とも知っておいてください。
みかんちゃん一般は柑橘/かんきつ/と呼ばれ、デコポンもゆずも文旦もオレタチも台の木は橘です。
橘/たちばな/は、一般的に唐橘/カラタチバナ/と称され、中国原産の植物で、略され枳殻/カラタチ/といわれているのとまぁ同義。
去年の伊予出征の際に、みかんの木を伐採していたブログあります。→こっちよ

ここではえている葉がない戦慄のトゲモミソで刺さると体の中で折れて抜けない非常に危険な木が、キコク=橘=カラタチ=唐橘ということになります。
丘の上のポニョならぬ丘の上のウニのような危険なものです。
橘は落葉樹でみかんは常緑広葉樹です。
伊予には多くの橘神社があって、柑橘で飯食っている民に、崇拝されております。
セコムとかなかったころ、よく垣根に植わっていて、春にかわいい葉っぱがでてきて、すぐにアゲハの幼虫に食い散らかされてまた棘だけの木に逆戻りしたりするあの木です!
そういえば、昔はどこでも生えていたものですが、最近危険すぎるのかめっき見なくなったと思います。
とにかくよく育ち、ガッツがありすぎる木で、生命力とか堅牢・不偏・忍耐・めでたいものを象徴するものとして知られています。
東洋では唐草模様として極当たり前に親しまれる模様は、、、
本瓦葺きのともえ瓦とか唐草の例の唐草模様。
木造建築に係る虹梁や実肘木の彫刻にほぼ確実に見られる例の唐草模様。
伊予の砥部焼きといえばシンプルな白い肌に青か緑青で絵がかれる例の唐草模様。
もちろん、典型的なあの風呂敷も。
全て、人々に羨望を浴びる象徴をその葉の形から抽象化したものであるということが、ここまで説明させていただければ、ご察しがつくと思います。
いたるところに唐草模様を貼り付けてうっとり出来る半ば奇妙な我が国民性というものは、橘に宿るものに何とかあやかりたいという思いそのものが溶け込んでおり、我々のDNAにまで焼きついてしまったものであるとして説明付けてあげると、なかなか頷けるものではないでしょうか?
柑橘は、橘が小さいときに、おいしい実がなるものを接木して作ります。それで多品種ながら、台の木は橘になると思います。
橘の実はお仕置きで食べさせられたことはありますが、拷問級に酸っぱ過ぎて食えたものではありません。
ゆずは、橘よりなので、近づくのも嫌なくらい痛いはずです。
みかんが若いときは、棘が多かったりするのも橘の勢いが強い為です。
一本に色々接木することも不可能ではありません。
食べると稀に出てくるみかんの種を植えても橘しか生えません。みかんは接木で増えます。
接木は楽しいので池内小刀を買ってください。
勢いがあって強靭極まりない橘の上に育ちが遅く病風害にも強くないものを差すことで、その勢いの恩恵を受けゆっくり確実に育ちます。
接木マジックは日本建築の適材適所の精神と何ら変わらぬものではないでしょうか?
それで半世紀近いものでも株チンで3寸強にしかならず、強烈に目の積んだものが生まれてくるということになり、よりぎっしり詰まっている材が誕生するのでは?とおもいます。
また、みかんの皮にある油を目に入れ合って泣いてみたり、ローソクの炎に絞って花火として楽しんだり、発泡スチロールをむちゃくちゃ溶かしてかさを減らして処理コスト大幅に削る油であったり、とてもよく落ちる洗剤になったりと、みかんの皮=すごいことをこなしちゃう油があるところとして知られているのはご存知かと思います。
この油は、材にも多く宿り、材自体を燃やすと呆れる位よく燃えます。
皮付き放置でも内部まで虫が食いにくく、非常に腐りにくく、あくも出ず、濡れ手で触っても樫のように変色しにくいですから蝋引きなし、塗装なしの鑿の柄のお肌もまた美しいのです。
材として木取りした後も、目理の積み方から考えると考え難いほど割れにくく、狂いません。
実にすばらしい木であり材であり橘神社はあれどもどうして世界橘教とかみかん万歳教とかいった宗教が興らなかったのが不思議に感じるのは私だけではないはずです?
接木技術が、古代に大成されていたなら、唐草模様を何にでも貼り付けに留まらず、世界四大宗教の一角として数えられていたのかもしれません。
木をいじくる職なら、材について色々な事を知っておくというのは、それだけでも非常に変えがたい財産であるという想いは、規格・既製品が席巻するご時勢だからこそ大切にして伝え続けて行きたい物です。
知らないということは、減反されたみかん材様は燃やすしか道がないことを意味しますからそれはそれは不幸なことであると思います。
といったぐあいで、今年も馬鹿なことでうにゃ長電話したわけです。
お疲れ様でございました。
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