何で、手間がかかる伊予なんですか?と聞かれれば、、
京都粘板岩砥石は中世砥石で古代砥石に伊予などの火成岩変性砥石がふくまれるからです。
わが国は、世界遺産と呼ばれるような世界最古の木造建築を擁す国家として世に知られるわけですが、これはとても不自然極まりないものだとは思いませんか?
よく大工さんのお仲間で、日本人は優れた民族であるとか器用であるとかいいますが、法隆寺や四天王寺は渡来人が・・・
だったと思います。
よく日本固有の何某で云々と言われますが、元々は舶来の建築で、当時の偉大な工匠が建築にはとてもきびしい日本の劣悪な気候風土を見越して、当時どこにも無いような軒のふかさだとかを見事に成し遂げて、これが国風文化時代を経て日本の建築へと呼ばれるようになったものだと思います。
差し金は大陸から聖徳太子が持ってきたという話は聞いたことはあると思います。唐尺の目盛りとかありますよね??
大陸から見れば圧倒的後進国で文字も漢字の当て字をかろうじて使いはじめたような国内で、どのように工匠具を調達したのでしょう?
火山国である日本は多くの火成岩の変性物を擁し、文献によると各都道府県にひとつは砥石が産していたようです。
その多くは火成岩もしくは凝灰岩系です。
古代藤原京のちかくの橿原の耳成山に伊予によく似た砥石がでたと、白鷹先生はおしゃってました。
確かおととしくらいの薬師寺の西岡棟梁をしのぶ会での来阪の際に橿原に「砥石さがしに寄り道してきたわぃ!」
と、おっしゃっておりまして、たまげた記憶があります。似たようなことは一度だけならず幾度かありました。
先生も古代道具を復元する事にその人生を賭してきたのです。古代銘砥をお探しになるというのは当然の成り行きであるものなのでしょう。
その時です。私が、「伊予できばらにゃどこできばんるんゾ。」と強く思ったのは。
平城京遷都後、伊予の砥石は都まで登っていた記録があり、1500年前の古墳時代では瀬戸内で流通していたと聞きます。
平安遷都の後、京都の粘板岩仕上砥石は発見され、中世鎌倉期に本格採取されたものでしたから、先生と西岡棟梁が復元させた道具というのは、当時では変性火成岩系の砥石で刃をつけられていたと考えられます。
鉄器において日本は最後発国にも関わらず、大陸にない軒の深さと精度の高い製材と仕口を実現させたのはやはり、鉄器に硬度や粘り及び精細な刃付け を可能とさせるような何かが働いたことがその起点であったとおもいます。もちろん建築にとって劣悪な気候風土を凌ぐという思いもその原動力であるとおもい ます。
われわれも古代人もそうはちがわなくて、手と足が二本ずつですから、出来上がるものの違いというのは道具の違いによるものが大きいと思います。
より硬く、より粘る当時の世界のどこにも無いような屈強な鉄器を生み出すには、もちろん性能の高い砥石で研磨加工出来なければ実現が困難であることは、人造砥石が無い時代のことですから、当然決定事項であったといえます。
古代において、世界規模での消費財の流通はまだまだ現実的なものではなかったので、鉄器の性能を支配するものは、その地に産す砥石の性能に委ねられ ていたのであろうと思います。
砥石の性能は、鍛冶師のよりよい道具つくりへの挑戦心をメラメラと休むことなく焚き付け、よい工匠具は各分野の工匠の思いやひらめきを実現ものとする手助けになったものと考えてます。
その積み重ねにより、建築、鉄器、文字など圧倒的に後発に加え、台風、多湿と地震が多い建築にとってよろしくない環境であるにもかかわらず、その逆境をはねかえし、 世界最古の木造建築を擁す結果になったものと思います。
もちろん刃物においても同じようにいまでは世界屈指の性能を誇ります。
少し前までの時代において鉄器を加工できる唯一の道具であった砥石は、古代奈良朝において宝石を数える単位である”顆”という単位が充てられており、如何に貴重なものであったか窺い知ることが出来ると思います。
京都の粘板岩砥石の発見後、刀の世になるわけですがこの砥石の作り出す仕上がり肌のうつくしさと切れ味は、わが国の刃物の品位をより引き上げてくれたもの と思います。
切れ味を持たせるということは、当時では武力につながることですから、砥石には産業的だけでなく軍事的にとても重要な資源でもあり、確か伊予山間部は法隆寺の寺 領に属していたころもあったり、山城国(京都市内)の砥石山は幕府直轄としていたようです。
砥石山は国益に係る替えがたい文化、産業、軍事における発信地であったという見方ができるのではないでしょうか?
資源がない国となげきがちですが、砥石資源においては地震、火山に多く見舞われてしまう代償と引き換えに神がかり的に溢れているもので、これもまた平凡で あるなら、日本は現在のような独特の文化などはなくて、もしかすると、どこかの国の一地方として属しているのかもしれません。
白鷹先生や棟梁のものの考え方は1000年佇む建築が既成事実として佇む以上、不偏でありとても尊いものと思います。
伊予は国の興りから昭和のおわりまで続く砥石でした。今では砥石くずのリサイクル方法として江戸の中期に始まった砥部焼きのトウセキ用途でしか利用 されませんでした。
私にできることは当時のものにちかいよろしい砥石を採取する眼をきたえ、文化的価値もよいのですが採算性に見合う産業であることをまず証明してみたいで す。そうでないと、伊予は昭和の終わりと同じようなことになってしまうと思います。
京都粘板岩の師に教わったことも、伊予では見当はずれになってしまいます。大工をやっていたころのように先輩や参考書もないので、全てヤマカンで難儀しました。
つたえ残すということは、もちろんその時代に生きている人間ひとりひとりが当事者になるのですから、採算性は当然避けて通れない道でもあると思います。一代限りのものでしたら何の意味もないと考えてます。
先生が後継者を育成するのにあたり、そこに懸念があるようですから何とか我々で盛り立てていけるような方法がないものか?とも考えております。
まづは、先般挙げさせていただいたPDFのように、先生の本物の仕事について世に広く知っていただく媒体をつくるのもいい方法だと思います。
多くのひとは、黒くてぽこぽこ??程度しか見てくれませんから・・・
誂える伊予は、京都のように板で揃わないので採るたびに性格が異なり分留まりも悪くて非常に悩むものの、先生をはじめこれを個性とかおもしろさとおっしゃってくれる方がずいぶん増えたと感じてます。
特殊な鉱物特性を生かして植木鉢としたり、硯のメンテナンス用砥石など、思いもよらなかったつかい道も見出していただきました。
これらをすべてやり甲斐としてうけとり、がんばります。
古代の道具をのこしたい鍛冶師
古代の建物を繕う大工さんのためにも古代の砥石があってもいいんじゃないかなと考る奴が一人くらいはいないと難儀じゃないのかなと考えてがんばります。
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